かつての大学では、何を言いたいのかわからない、要点が何か分からない、だらだらとした雑談風の授業が行われていた。テキストを朗読するだけの授業や90分の授業時間中、出席を取るのに、30分費やすなど、酷い授業が行われていた。そのために、学生は学ぶ意欲をそがれてきた。
これは、戦前から続いてきたことである。戦前の大学では、授業中寝ていたり、私語をしている学生どころか、授業中、将棋やビリヤードをしている学生もいたという。
ビリヤードは、当時の流行で、麻雀は戦後になって流行したものらしい。それで将棋。また、戦前、大学は、いわゆる帝大だけだが、師範学校、専門学校、高専などが、戦後、大学になったため、これらの学生も、含めて大学生ということが多い。余談だが、学生になれば、兵隊にとられずに済むという理由から、経済的余裕のある人は学生になったそうで、学徒出陣を美化するのは、おかしいのである。
授業中の学生の私語など、戦前から、当たり前のことであったし、戦前は、授業中にビリヤードや将棋を楽しむ学生もいたのである。だから「今時の学生は」という言葉は、戦前から、ずっと言われ続けてきたものであろう。
学生が、授業中に、ビリヤードや将棋をやらざるを得ないのは、大学の授業があまりにひどすぎたからである。
大学教授は、研究をしなくても、教育をしなくても、給料を減らされることも、解雇されることもなかった。それが、ようやく改善されつつあるのだ。
国立大学が、独立行政法人化されて、文部科学省の天下りが増えた。天下り先を増やすために、文部科学省は、大学院を増やしている。
かつては、皆平等に、研究成果を上げない教授にも、研究費を配分していたが、今では、それが廃止された。大学院生の数を増やせば、研究予算がもらえるため、大学院生を増やしている。この点は、文部科学省の利権拡大のために利用されているが、学生が授業を評価するシステムを取り入れたり、入学希望者の少ない大学の予算を削減するなど、大学に競争原理を導入することにより、授業内容が改善されたこと自体は、高く評価されるべきである。
教授や講師など、研究や教育に直接従事する職種に、競争原理を導入したことは、高く評価されるが、文部科学省の天下りは、言うまでもなく、大学の事務系公務員は、相変わらず、お役所体質のぬるま湯に、どっぷりつかり、仕事をしない。この点は、改善されるべきである。
何もしなければ、何も変わらないのだ。課題は残るが、改革によって、現に成果が出ていることを無視して、反対ばかりしても、何も産まない。
私立大学の場合、18歳人口が減っていくことから、入学者が減り、経営努力を怠る大学は、淘汰されていくだろう。
授業料値上げの問題などは、私立校に対する補助金(利権化している)を廃止し、学生に返還義務のない奨学金を直接支給するシステムに切り替えることにより、解決されるべきである。
構造改革には、評価すべき点もあるのだ。ヒステリックに改革反対を唱えるのではなく、評価すべき点は、きちんと評価し、今後、改善すべき点を改善すればよいのだ。
すべての改革に反対か賛成かというのではなく、この部分は良かった、この部分は失敗だった、というようにきちんと評価すべきなのである。そのうえで、改善すべき点を検討すればよい。何もしなければ、何も変わらない。
このブログで、何度も指摘してきたことだが、すでに高度成長が終わった70年代には、戦後システムの矛盾が露呈し、構造改革の必要性は、明白だったにもかかわらず、問題の先送りに終始してきたのである。
すべての改革には、プラスの部分もあれば、マイナスの部分もある。改革によって、得をする人と損をする人が出てくるものだ。たとえば、明治維新では、200万人の士族が没落したし、戦後のGHQによる改革では、地主と華族が、没落した。
今、没落させなくてはならない最大の特権階級は、公務員である。公務員を没落させない限り、日本国そのものが、崩壊するのだ。改革の手を緩めてはならない。
ラベル:公務員

